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金剛組

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1442年続く、日本最古の企業

今回は、創業578年、現存する最古の企業、金剛組を紹介します。創業当時、日本は飛鳥時代。聖徳太子が四天王寺を建てるために百済から招いた宮大工・金剛重光によって創業されました。

金剛組の沿革

578年、四天王寺建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工(金剛、早水、永路)のうちの1人である金剛重光により創業しました。江戸時代に至るまで四天王寺お抱えの宮大工となります。

593年、四天王寺創建。但し、廻廊と講堂の建築まで完成するのは百数十年後の奈良時代前期です。四天王寺を築いた工法は今も金剛組「組み上げ工法」に生きています。

1576年、石山寺の戦いで、織田信長の焼き討ちにより四天王寺が焼失しました。

16世紀にかけて、大坂城建設に携わったと伝えられます。

1614年の大坂冬の陣で再び四天王寺焼失しました。四天王寺は戦火や自然災害のため7度の焼失と再建をくり返しますがその都度、歴代の金剛組が再興に取り組んでいます。

1868年、四天王寺、寺領を失います。金剛組は四天王寺からの禄を受け取れなくなり、他神社にも進出します。

1934年、室戸台風で四天王寺五重塔が倒壊します。第38代棟梁で歴代初の女棟梁・金剛よしえのもとで金剛組が再建を果たします。

1955年2月3日、株式会社化します。

2005年11月1日、髙松建設が全額出資した新・金剛組が設立されます。

2006年、高松建設株式会社の出資を受け、新生 金剛組として再出発します。創業以来1430年余にわたる伝統の技術と心、ならびに従業員・宮大工といった人材をすべて引き継いで新たなスタートを切りました。現在、金剛組が擁する宮大工の数は約120名です。

2007年、民事再生手続き中の株式会社中村社寺の全株式を取得し、子会社化します。

2008年、親会社の持株会社化に伴い、株式会社高松コンストラクショングループの一員となりました。山車・だんじり・神輿の新調・修理専業の子会社として「金剛組エンジニアリング」を設立します。

2013年10月28日、39代目金剛利隆が後継者不在のまま89歳で死去。 2014年1月11日、宮大工たちが1年の安全を祈る神事「手斧(ちょんな)始め」(大阪市無形民俗文化財)が、史上初めて、当主不在のまま行われました(金剛組相談役で権大工の植松襄一が「正大工代務者」として代行を務めました)。なお現在も日本で「手斧初め」の伝統を受け継ぐ建設企業は金剛組と清水建設のみとなっています。

数々の経営危機(7度の焼失、神仏分離令、当主自殺など)

金剛組は、1436年という歴史の中で、幾度となく苦境に立たされています。戦乱や落雷、台風、空襲など、過去7回、四天王寺にある五重塔は焼失しました。

1 明治時代、「神仏分離令」により、寺領を失った四天王寺とともに困難に

明治時代には「神仏分離令」が発令され、四天王寺は、ピーク時には100ほどあったといわれる寺領の多くを没収されました。それまで四天王寺のお抱え大工として、それら寺領の工事すべてに携わっていた金剛家は、四天王寺領の工事が激減し、窮地の中、各地の寺社建築に新たに取り組むようになります。

家訓を守り、「いい材料で、いいものを作り、いい仕事をする」ことには長けていた金剛組でしたが、長い間、四天王寺から発注される工事のみを行い、部外者を入れるしきたりもなかったことから、営業やそろばん勘定に苦戦し、日に日に困窮していきました。

2 昭和初頭、当主が自殺、歴代初の女棟梁が五重塔を再建

昭和に入っても苦難は続き、無類の職人気質だった第37代金剛治一氏の時代には、極度の経営悪化状態に陥ります。そして、治一氏は先祖代々の墓前で自殺をします。その後、3人の子どもを抱えながら、妻のよしゑ氏が歴代初の女棟梁として第38代を継ぎ、活発に事業展開を行った結果、難を逃れます。「なにわの女棟梁」と異名を持つよしゑ氏は、1934年(昭和9年)、室戸台風のため四天王寺五重塔が倒壊した際も、果敢に再建に取り組み、1940年(昭和15年)、努力の末に完成します。しかし、時代は第二次世界大戦に突入し、1945年(昭和20年)の大阪大空襲により、境内のほぼ全域が再び焼失します。金剛組は、寺院関係の仕事がなくなり、軍事用の木箱を製造するなどして、戦時をしのぎました。

3 戦後、コンクリート工法に転換するも、事業拡大の失敗により経営危機に

それまでの寺社建築といえば木造建築でしたが、戦後、寺社を復興する際は、防火・防災・経済性にすぐれる鉄筋コンクリート工法が取り入れられるようになりました。四天王寺も例外ではなく、五重塔の再建にあたり鉄筋コンクリート工法に検討されますが、金剛組は、木造建築の経験しかなく、コンクリート工法の知識や経験はありませんでした。戦後の再建は、四天王寺始まって以来、金剛組以外の大手ゼネコンが工事を行うことになります。このことに心を痛めた第39代金剛利隆氏は、経営の近代化を図り、1955年(昭和30年)、株式会社金剛組を誕生させ、専務として社長のよしゑ氏を支えました。以降、鉄筋コンクリート工法でも、日本建築本来の優美さや、木のあたたかみなどを損なわない独自の工法を開発しました。他の社寺建築にも応用されるようになりました。

しかし、このコンクリート工法の開発が、慣れない一般建築への事業拡大へ突き進むきっかけとなり、金剛組は負債が増大し、経営危機に陥ってしまいます。2006年、金剛一族が率いる旧金剛組は、髙松建設株式会社が立ち上げた新金剛組に営業権を譲渡し、大多数の従業員や宮大工が、そのまま移ることとなりました。

4 髙松建設株式会社の出資で新体制へ

髙松建設が全額出資した新・金剛組が設立され、新・金剛組へ営業権を譲渡すると共に従業員の大半を移籍します。世界最高の社寺建築会社で、国宝級の技術があったからこそ、この技術を失ってはいけないという想いで、髙松建設をはじめ、周りの企業から支援を受けて、新体制に至りました。新体制では、ガラス張り経営、本業回帰、コスト意識、提案営業強化などを改革の主軸として経営再建されています。

1442年続いた秘訣は“信仰心”と“普遍性”

国内で1000年以上続く長寿企業の共通点は大きく2つあるといいます。

 一点は、神社や寺の奉納に携わる仕事であることです。聖徳太子が沐浴されていたと言い伝えられている六角堂北面の池に花を供えていたことが始まりの池坊華道会、京佛具の本流を受け継いで千年余りの年月を刻む田中伊雅佛具店、今宮神社脇の休み処である一文字和助など、「神仏に仕える」という精神が先にあるため、「儲けすぎない」「手を抜かない」という心構えが根強く残っています。また、共存共栄により信仰心が高まり、穏やかな国民性・民度の高さにも繋がったのではないでしょうか。

 もう一点は、昔から変わらないことを、最後までやり続ける普遍性です。1000年企業の稼業である、社寺建築、華道、仏壇、和菓子、温泉などは、時が経ても変わらず、伝統の手法を守り続けているものばかりです。金剛組が行う社寺建築の様式も、その時々の時代背景により変化はしていますが、基礎となる伝統美は変わっていません。39代金剛利隆書「創業一四〇〇年」に、こんな一文があります。「老舗とは『為似せ(しにせ)』です。つまり、先祖伝来の教えを継ぎ、守勢に徹することを意味しています」 金剛組は、1400年をかけていくつもの危機を経験しながらも技術を守り続け、社寺建築専門という原点に戻りました。次の100年、200年をどう守り、どう攻めていくのか、金剛組の新たな挑戦は続きます。


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