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山本山

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江戸時代から続く、海苔とお茶を製造する食品メーカー

今日は、「上から読んでも山本山。下から読んでも山本山」というキャッチフレーズで広く知られている、海苔とお茶を製造している食品メーカー、山本山を紹介します。元禄3年(1690年)創業の山本山は、江戸期に庶民の間に青製の煎茶を広め、さらに玉露を開発した会社です。現在はアメリカに現地法人を設立し、米国と日本市場でハーブティの事業も展開しています。

山本山の沿革

元禄3年4月(1690)初代嘉兵衛(山本氏)江戸出店、茶・紙類を商う

元文3年6月(1738)山城国宇治田原郷湯屋谷の住人永谷宗七郎、青製の煎茶製造に成功。

山本嘉兵衛その上品なるを認め、「天下一」の号を附して永谷の煎茶を市販する

天明7年 春(1787)日本橋二丁目都竜軒山本嘉兵衛、茶所として引札を出す

文化13年(1816)この頃、山本家定目成る。一橋卿・幕府本丸御用茶師となる

文政13年(1830)西御本丸・東叡山・御三卿(田安・一橋・清水)御茶御用を勤める

天保6年 春(1835)六代嘉兵衛徳翁、宇治郷小倉の木下家において玉露茶を発明する

この正月「煎茶小述」発行(徳潤著)

弘化3年正月15日(1846)本郷丸山火事。白木屋と共に類焼

嘉永元年(1848)「煎茶手引之種」(徳潤著)発行

安政2年 夏(1855)「狂歌茶器財集」(徳翁著)発行

明治18年12月(1885)東京府庁より茶業鑑札第二号を受ける

明治42年5月(1909)「山本山」一斤(百六十匁)五十銭売、一日小売二千斤(約1200kg)と伝える

大正12年9月1日(1923)関東大震災、倉庫七棟と共に全焼・深川支店も全焼

昭和16年5月(1941)法人組織に改組。資本金三百万円・株式会社山本山と称す

昭和20年3月(1945)東京大空襲・全焼

昭和21年10月(1946)日本橋に二階建て店舗を建設

昭和22年(1947)海苔の販売開始

昭和26年5月(1951)山本山ビルディング建設

昭和35年5月(1960)東京第一工場建設

昭和37年7月(1962)第二山本山ビルディング建設

昭和38年5月(1963)「日本茶ティーバッグ」発売

昭和41年(1966)静岡工場建設

昭和45年(1970)福岡支店・大阪支店・札幌支店・名古屋営業所 開設

昭和45年10月(1970)ブラジル・サンパウロ州 現地法人設立

昭和48年(1973)熊本工場建設

昭和50年9月(1975)アメリカ・ロサンゼルス 現地法人設立

平成元年6月(1989)仙台営業所 開設

平成2年3月(1990)山本邦一郎 九代嘉兵衛襲名

平成2年5月(1990)創業300年記念式典開催

平成10年7月(1998)山本山ウェブサイト「心」開局

平成17年4月(2005)山本山ウェブサイトリニューアル 通信販売開始

平成30年4月(2018)商品パッケージリニューアル

平成30年6月(2018)エノキアン協会入会

平成30年6月(2018)山本山オフィシャルサイトリニューアル

平成30年9月(2018)日本橋再開発で竣工した日本橋高島屋三井ビルディング11階に本社事務所を開設。同ビル1階の中央通りに面する山本山創業の地に、「ふじヱ茶房」を開店。

煎茶の発明者との出会い

山本山の創業は元禄3年(1690年)初代の山本嘉兵衛が、山城国(京都府南部)宇治山本村から上京し、日本橋で和紙やお茶、茶器類等を扱う「鍵屋」を開業したことに始まります。歴代の当主は「山本嘉兵衛」という名を受け継いでいきます。そして、4代目の山本嘉兵衛の時に、大きなチャンスが訪れます。現在にも受け継がれている日本煎茶の基礎である「宇治製法」の発明者であり、永谷園の創業者・永谷嘉男の先祖である、永谷宗円との出会いでした。

誰も気づかなかった新商品の可能性を見抜いた4代目

当時飲まれていた煎茶は、日干しで乾かした茶色い「黒茶」であり、味も良くありませんでした。それに対して、宗円が発明した煎茶は、お湯で茶葉を蒸した後に、焙炉と呼ばれる茶葉を乾燥させるための箱の上で茶葉を手揉みすることにより、美しい黄緑色と、適度の渋み、苦みに、旨味、甘味を実現した画期的なものでした。

 そして、この茶葉の販路を開拓すべく、江戸を訪れた宗円でしたが、従来と全く違うこの茶葉の価値を評価してくれる茶商はおらず、最後に訪れたのが山本屋だったのです。煎茶の美味に感嘆した4代目は、その味を即座に認め、小判3枚で買い取り、翌年の購入も約束しました。

 この煎茶に「天下一」と名付けて売り出すと、江戸そして、全国で圧倒的な人気を博し、山本屋は大きな評判と莫大な利益を挙げました。ちなみに、山本家は永谷家にお礼として、毎年小判25両を明治八年(1875年)まで贈り続けたというのです。これがどれほど大きな商いに繋がったのかが伺えます。

5代目は「狭山茶」を見い出し、6代目は「玉露」を発明する

4代目の時に、永谷宗円とその煎茶との出会いにより大きな飛躍を遂げた山本屋でしたが、続く5代目、6代目も、日本茶の歴史に残る大きな業績を残しています。「古今稀な知恵の持ち主」と宇治の生産者達からも評された5代目でしたが、4代目と同じように、当時はマイナーな存在だった「狭山茶」を発掘して「霜の花」「雪の梅」と名付け、積極的に販売、狭山茶は「静岡茶」「宇治茶」と並んで「日本三大茶」と称される存在になります。

逆に、6代目は生産側として、大きな仕事を成し遂げています。天保六年(1835年)に、宇治小倉郷の木下吉左衛門宅を製造に立ち会うために訪れた6代目は、製茶中の茶葉を露のように丸く焙ることを思いついて、やってみたところ甘露の味わいの絶品に仕上がることを発見します。これこそが、今日にも至る高級茶葉「玉露」でした。

各世代の当主の活躍によって、山本山は、4代目以降も更なる発展を遂げました。『江戸名物狂詩選』の記述にある、「買う者立ち並び客は市の如く、番頭手代少しも間無し、一時に売り出す三千斤、多く是れ自園の山本山」という記述があり、相当な繁盛ぶりだったと言えます。

ブラジルで日本茶を作り、ロサンゼルスでハーブティと海苔を売る老舗

1947年にはもう一つの看板商品である海苔の取り扱いを開始したり、「上から読んでも~」のフレーズで積極的なブランディングを展開したり、と次々に老舗とは思えないほど、時代の流れに合わせて、積極的に事業を展開しています。そして、海外にも1970年代から進出しています。

 その内容も、ブラジルで東京ドーム45個分もの面積の茶園を作ってお茶を生産する一方で、ロサンゼルスに現地法人を作り、アメリカ・ヨーロッパ・アジアの各国で健康飲料として注目されている日本茶をはじめ、中国茶・紅茶・ハーブティの製造及び、世界中でブームとなっている寿司に使用される海苔の加工を行なうなど、垂直方向(生産)から水平方向(販路)まで、世界を舞台にして、縦横無尽に活動の場を広げています。


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