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松坂屋

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松坂屋の歴史は、1611年、慶長16年に「いとう呉服店」として創業したところから始ります。そして、1768年に上野の松坂屋を買収して、「いとう松坂屋」と改称します。現在は、J.フロント リテイティング傘下の株式会社大丸松坂屋百貨店が東海地方を本拠点として運営しており、名古屋市などの中京圏で最有力百貨店とされています。

松坂屋の沿革

1611年  織田信長の小姓であった伊藤蘭丸祐道が、本能寺の変の後、名古屋本町に呉服小間物問屋を創業。これが、松坂屋の前身であるいとう呉服店の始まり。
1768年  江戸に進出し、上野の松坂屋を買収して、「いとう松坂屋」へと店名変更。寛永寺や尾張徳川家、加賀前田家の御用を承る大店として知られるようになった。
1868年  彰義隊と官軍による上野戦争において、上野店が官軍の本営となった。
1875年  ゑびす屋呉服店を買収し、大阪へ進出。
1907年  上野店を「合資会社松坂屋いとう呉服店」に改組。
1910年  資本金50万円で「株式会社いとう呉服店」を設立、名古屋・栄町に百貨店を開業。
2007年  株式会社大丸と経営統合し、持株会社「J.フロント リテイティング株式会社」を設立。
2010年  株式会社大丸と合併し、株式会社大丸松坂屋百貨店が誕生。現在は、名古屋店・豊田店・上野店・静岡店・高槻店を展開している。

長い歴史と時代の文化の発信基地

東海地方を本拠点とし、特に名古屋を中心とする中京圏では今なお最有力の百貨店であるといえます。イメージフラワーはカトレヤで、キャッチフレーズは「生活と文化を結ぶマツザカヤ」です。

現在の三菱UFJ銀行(旧東海銀行)の前身の一つである伊藤銀行や、「名古屋の帝国ホテル」と呼ばれた名古屋観光ホテル、名古屋商工会議所、東京フィルハーモニー交響楽団など各企業・団体の設立にも関わっています。

業界他社に先鞭をつけて行った出来事が数多くあります。1910年に百貨店初の多目的ホールを設置しました。「欧米のソレにも絶て例なき善美を尽せる演舞室」と当時の新聞も賞賛しました。1918年には百貨店で初めて制服を採り入れました。1924年に百貨店の発達史上一時期を画するといわれる土足入場に踏み切ったのは、松坂屋銀座店が最初です。誰もが立ち寄れる店舗として、以後、百貨店の大衆化が進みました。1929年には初めてエレベーターガールを登場させました。1930年(昭和5年)1月1日、地下鉄広小路駅と上野店の地下売場がつながり、地下鉄と直結した最初の百貨店となりました。百貨店の名店街(デパ地下)は、名古屋店が1936年に開設したのが最初です。1937年にわが国初のカルチャーセンター「松坂倶楽部」を作りました。銀座店は、東京オリンピック開催の前年(1963年)、日本初のエレベーター式のパーキングビルを建設しました。

創業以来400年有余年の松坂屋、幕末から近代にいたる時代においても歴史上の多くの人物と関わりをもっています。戊辰戦争の最大のヤマ場ともいわれた上野戦争で、西郷隆盛は、松坂屋上野店の2階に参謀部をおき、幕府側の彰義隊と相対しました。また、新選組副長・土方歳三は、松坂屋で少年時代に丁稚奉公していたことがあります。「乙鳥(つばくろ)や赤い暖簾(のれん)の松坂屋」夏目漱石は正岡子規に送った一句に松坂屋を詠んでいます。また、松坂屋で買い物をしたと日記に記しています。

他の百貨店運営会社等との比較

まず、売上高については、三越伊勢丹ホールディングス、高島屋、セブン&アイ・ホールディングス(そごう・西武百貨店)、エイチ・ツー・オー リテイリング(阪急阪神百貨店)に次いでJ.フロント リテイリング (大丸松坂屋百貨店)が第5位となっており、その額は約2,754億4,100万円です。 また、営業利益は、三越伊勢丹ホールディングス、高島屋に次いでJ.フロント リテイリング(大丸松坂屋百貨店)が第3位となっており、その額は約241億9,400億円です。売上高のランキングと対比してみると、J.フロント リテイリング(大丸松坂屋百貨店)は、他社よりも販売費や一般管理費を抑えた経営をしているということが言えるのではないでしょうか。 なお、時価総額については、セブン&アイ・ホールディングス(そごう・西武百貨店)、東急(東急百貨店)、小田急電鉄(小田急百貨店)、東武鉄道(東武百貨店)、丸井グループ、三越伊勢丹ホールディングスに次いでJ.フロント リテイリング(大丸松坂屋百貨店)が第7位となっています。


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