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八丁味噌

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徳川家康の長寿の秘訣(?)大豆と塩だけで作った味噌

今回は、愛知県岡崎市の「八丁味噌」をご紹介します。

八丁味噌の歴史

徳川家康公が生まれた岡崎城から西へ八丁(約870m)の距離にある八丁村(現在:愛知県岡崎市八帖町)で2軒の味噌蔵が造っていたことから、その地名より「八丁味噌」と呼ばれ、以後2軒は商標として「八丁味噌」を使用しています。

 江戸時代の岡崎市八帖町(旧八丁村)は、陸路である東海道と矢作川(長野県から岐阜・愛知を流れ三河湾に注ぐ一級河川)の水運が交わる水陸交通の要所でした。そこで、兵食として重要視されてきた味噌を、軍需物資の兵站基地として形成された八丁村で製造することに着目した早川久右衛門家(現・カクキュー(創業1645年))と大田弥治右衛門家(現・まるや八丁味噌(創業1334年)が当地で味噌醸造を創業しました。これが「八丁味噌」の始まりです。但し、徳川家康の健康と長寿と支えたのは「麦飯と豆味噌」だったと言われ、戦国時代にはすでに岡崎で豆味噌が製造されていたものと考えられています。

江戸時代には、矢作川に掛かる矢作橋付近には「八丁土場」と呼ばれる船着き場がありました。この船着場を活用して大豆や塩を入手するとともに、出来上がった八丁味噌を出荷していました。また矢作川、伊賀川、乙川、早川に挟まれた湿潤な気候で食品が腐敗しやすい環境でしたが、このような環境にも耐えられる安定した品質の八丁味噌の製法が2軒の味噌蔵により確立されました。

 その製法により極力水分を少なく仕込み、熟成期間の長い八丁味噌は生産性がよくない反面、保存性に優れていました。そのため戦に必要な三河武士の「兵糧(ひょうろう)」として岡崎藩に保護され、岡崎藩御用達となり、岡崎の伝統品である花火や石工とともにこの地の地場産業として発展してきました。  そして江戸時代初期より八丁味噌を造りつづけている2軒の味噌蔵が旧東海道を挟んで向かい合って営業していたことにより、街道を往来する参勤交代やお伊勢参りの旅人を通じて「八丁味噌」の名が広く知られるようになり、その後の運送網の整備に伴い全国的に知られるようになりました。

八丁味噌の特徴

「八丁味噌」は、他の地域の味噌(米味噌等)の主原料が米(又は麦)、大豆、食塩であるのに対し、大豆と食塩のみである点で大きな相違があります。「八丁味噌」は、赤褐色で色が濃く(概ねY値3.0%以下)、適度な酸味があり(概ねpH4.8~5.2程度)、うまみが強いだけでなく、苦渋味を有する独特な風味を持っています。

「八丁味噌」の生産地である愛知県は、高温多湿な気候であり、味噌造りで重要な製麹過程で腐敗することが多く、安定した味噌造りができませんでした。そこで、「八丁味噌」に関しては、高温多湿でも安全に麹造りができるように、大豆だけで味噌玉を作って、大豆に直接麹菌を付ける「味噌玉造り製法」という製法が用いられるようになりました。またこの製法は、「八丁味噌」の仕込み後の熟成温度が他の製法に比べて高くなります。そのため、大豆の分解が進み易く、うまみが強く、色が濃い特徴的な味噌ができる要因になっています。

 愛知県の高温多湿な気候により人は汗をかきやすく、発汗により不足する塩分や栄養価の高いタンパク質の補給を「八丁味噌」が担うことで、古くから人々の健康維持に役立ってきました。また、愛知県の嗜好性として濃い味を好むことも相まって、味噌かつ、味噌おでん、味噌煮込み、味噌鍋など、いわゆる「名古屋めし」の代表的な調味料として、「八丁味噌」は愛知県内に定着し、愛知県の特産品として広く認知されています。

八丁味噌の生産について

原料については、「八丁味噌」は豆味噌であり、その原料は大豆及び塩です。製麹する方法については、蒸した大豆で直径20mm以上、長さ50mm以上の大きさの味噌玉を作り、その表面に麹菌を繁殖させて豆麹を作ります。

豆麹、塩、水を混ぜてタンク(醸造桶)に仕込み、重石を載せて一夏以上(温度調整を行う場合は25℃以上で最低10か月間)熟成させます。重しは、負荷をかけることにより、仕込み・発酵を均一化・安定化させ、味噌タンク中の空気を追い出し、味噌の酸化を抑える目的で使用します(重石のその形状は問いません。)。  「八丁味噌」特有の酸味(概ねpH4.8~5.2程度)、うまみ、苦渋味を有し、異味異臭がなく、赤褐色(概ねY値3.0%以下)を呈していることを出荷基準としています。

八丁味噌の普及について

八丁味噌は、保存性が良く、携帯するのに便利であったため、戦国時代には三河武士の兵糧として重用されていました。その後、三河譜代の大名や旗本、そして参勤交代やお伊勢参りといった旧東海道を行き交う人々を通じて、江戸時代にはすでに広く全国に知られ、多くの人々に親しまれるようになりました。

1981年に「八丁味噌」を含んだ社名を商標出願した企業に対して拒絶査定が出ています。このように、「八丁味噌」という言葉は広く一般に知られており、普通名称であることが認定されています。

海外ではかねてより、バランスのとれた自然食品として知られています。1968年にアメリカの消費者運動グループが製造元を訪れ、見本を持ち帰った分析した際、高い評価を受けました。1971年2月、カリフォルニア大学微生物学教室のドナルド・サットン主任教授らの現地調査によって食品としての合理性が確認されました。こうしたことから海外輸出量が増え、製造者が表彰を受けています。

全国の味噌生産量は1973年の59万トンをピークに、年々減少傾向にあります。しかし、全国的な海外への味噌輸出量は1977年の約1千トンから2010年には約1万トンと10倍に増加しています。さらに海外の日本食レストラン数は2006年には約2.4万店、2013年には約5.5万店、2015年には8.9万店と急激に増加しており、味噌の海外需要が今後も増加していく可能性が非常に高いです。八丁味噌はいち早くオーガニック商品に取り組み長期に渡って海外進出を続けています。日本国内の需要縮小という課題はあるものの、海外への安定した供給を確保し続けることで八丁味噌が愛知県の伝統食として継続していくことが期待できます。


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