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下関ふく

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ふぐの本場下関はとらふぐの取扱量は世界一

今回は、全国で唯一ふぐを専門に取り扱う卸売市場、南風泊市場(はえどまりしじょう)のある山口県下関の「下関ふく」をご紹介します。

下関ふくの歴史

日本では約20,000年前の遺跡から、ふぐ科の魚の骨が出土しています。千葉県にある姥山貝塚からは、ふぐ毒にあたって亡くなったとみられる約5,000年前の縄文人家族の人骨が発見されました。日本人は古代、縄文時代から釣りや網等で魚を獲っており、沿岸地域に多く生息しているふぐは馴染みの食材だったと言えるでしょう。当然、毒の知識もなく中毒になって命を落とす人もいた中で、それでも遺跡の貝塚などからふぐ科の魚の骨が多数出土していることを考えると、ふぐは身近で貴重なタンパク源として重宝されていたことが伺えます。

日本で最初のふぐの記録は、「布久」という名で登場します。日本最古の平安時代(794年~1185年)の「本草和名」(918年)で、薬用となる動植物のひとつとして紹介されています。さらに安土桃山時代(1575年~1603年)に入り、豊臣秀吉が朝鮮出兵した「文禄・慶長の役」(1592年~1598年)で、ふぐに関する一大事故が起こります。豊臣秀吉は、朝鮮への窓口となった肥前那古屋(現在の佐賀県唐津市)に前線基地を設置し、全国から将兵を集めました。海を渡って朝鮮と戦うために駐屯していた大勢の将兵たちは、出陣前の集結地でふぐを食べ、次々と中毒死してしまう大事故が起きたのです。16世紀最大の戦争と言われるこの戦いで、君主の役に立たずしてふぐで命を落とすとは言語道断の行いです。このことがきっかけとなり、豊臣秀吉は「河豚食用禁止の令」を出し正式にふぐ食を禁止にしてしまいました。その後、時の権力者が移り変わった徳川治世下でも、武家の間でふぐ食禁止は続けられました。各藩は「河豚食用禁止の控」を設けて、厳しく取り締まりを行っていたといいます。罰則は容赦なく、中でもふぐ生産地のひとつ長州藩は最も厳重で、違反者には家禄の没収や家名断絶という大変厳しい措置を定めていました。武士の死生観として、主君の為に奉公する命を食い意地のために落とす事は美しくなく、恥ずかしいことだったのかもしれません。

一方、庶民の間ではふぐの食文化は秘かに花開いていきました。しかし明治18年(1885年)、政府は正式に法律でふぐ食禁止を定め、「河豚食ふ者は拘置科料に処する」という項目を盛り込んだ「違警罪即決例」を発布します。これで一般人もふぐを食べる事はできなくなったのです。「ふぐは美味しいけれど毒が怖い、しかも法律により禁止されている。」厳しい処罰を知りながら、それでもふぐは重要な食料としてこっそり食べ続けられていました。長年のふぐ食文化の間に、ふぐ毒の処理の仕方も確立され、安全な可食部位が定まっていたのです。

明治20年(1887年)、明治政府の初代総理大臣である伊藤博文が下関に滞在した際に、宿泊した春帆楼にてふぐ料理を出したことで歴史が変わります。伊藤が宿泊した際、海が荒れて漁に出られず、提供できる魚がなかったそうです。処罰されることを覚悟でふぐの刺身を出したところ、その美味しさに感動した伊藤博文は、当時の山口県令(知事)原保太郎に働きかけ、違警罪即決例から「河豚食ふ者は拘置科料に処する」という項目を消させたといいます。翌明治21年(1888年)に、山口県においてのみふぐ食は解禁され、新たなふぐ食の歩みが始まるのです。明治25年になり、東京都でもふぐの販売が許可されます。しかし、ふぐを適切にさばけるふぐ処理士がいなかったため、下関は職人を育て、東京へ派遣していました。

第一次世界大戦が終結した大正7年、兵庫県でふぐが解禁となりました。長い食糧難の時代を超え、昭和16年になってようやく、大阪の街でもふぐ食が解禁されました。昭和23年大阪府は、ふぐ食の安全確保のため、ふぐ処理を手掛ける職人に免許制度を設け、毒による事故の発生を防ぐ条例を出します。全国に先駆けた「ふぐ販売営業取締条例」は、消費者がこれまで感じていたふぐ食へのリスクを減らしました。翌24年に東京都でも同様な条例が制定され、じわじわと全国にふぐの資格制度が広がっていくことになります。

下関ふくの特徴

「下関ふく」は、日本近海の漁場で漁獲された天然とらふぐ又は国内各地の養殖場で養殖されたとらふぐを、下関で確立された「活かし込み」および「みがき処理」と呼ばれるの一連の行程により、「みがきふぐ」としたものです。活魚で入荷したとらふぐを水槽等で「活かし込み」を行うことにより身質が引き締まっていることと、「みがき処理」と呼ばれる除毒作業を高度な技術を有するふぐ処理師が行うことにより鮮度が保持されていることが、「下関ふく」の特徴となっています。また、下関には日本の各地の漁場や養殖場から年間を通してとらふぐが集荷され、その供給も安定しているため、「下関ふく」の生産業者は様々な産地のとらふぐを扱った経験を有することとなり、目利き(魚の品質を見分ける)の力は極めて信頼性が高く、特定の産地のみを扱う他の地域の追随を許しません。

「下関ふく」の生産業者は活魚の状態で下関市地方卸売市場南風泊(はえどまり)市場に入荷したとらふぐを仕入れて、生産業者が生産地内に有する水槽等で1日~4日程度活かし込みます。これは移送によって生じたふぐのストレスを除去するとともにとらふぐの体内に残った餌や老廃物を体外に出し、絶食させて身を引き締めるためです。また仕入れたとらふぐの状態や傷・病気の有無もこの間に観察して、引き上げて捌く時期を判断します。そして状態の良いとらふぐだけを選別して、活魚の状態で生産地内の各「下関ふく」生産業者の処理場に移し、ふぐ処理師によるみがき処理を行います。みがき処理とは除毒処理と除毒したとらふぐを拭き上げ、出荷に至るまでの行程です。除毒処理は、とらふぐが持つ卵巣、肝臓、腎臓、心臓、胆のう、胃、腸、脾臓、えらといった有毒部位を除去するために、包丁による捌きと目視による水洗いを行う作業で、ふぐ処理師には熟練した技能が求められます。また、みがき処理においては、鮮度保持のための温度管理が非常に重要であり、処理場内を概ね気温20度以下に保持することが基本ですが、加えて、捌いたふぐをすぐに氷冷水で洗うなどの方法も採用されています。

もともと下関はとらふぐの産卵地が近海にあり、また、とらふぐが回遊する日本海と瀬戸内海をつなぐ関門海峡を有していることなどから天然とらふぐの産地であり、古来よりふぐ食文化の発達した地でした。その後、漁法の変化とともに漁場が移ってからも、東シナ海、黄海、日本海、瀬戸内海などで漁獲されたふぐを集荷しやすい地理的な優位性を持ち、ふぐ食文化の中心地であったため、天然とらふぐの一大集積地であり続けました。1970年代に養殖とらふぐが登場し、多くの活魚水槽を備えた南風泊市場や近隣に水産加工団地が整備されたことにより、下関に集荷される基盤が形成され、日本で一番の集荷を誇る流通の要所となりました。日本の各地から南風泊市場に入荷したふぐは、「下関ふく」生産業者が長年培った目利きの力を発揮できるように漁師(漁船)や養殖業者毎に大きさが細分化され、競り落とされます。このようなふぐの食文化と流通の集積がなされていた下関において、活かし込みやみがき処理の技術は他の地域に先んじて確立されてきました。

下関ふくの生産について

使用する魚種は、日本漁船により日本近海の漁場で漁獲されたとらふぐ又は国内で種苗生産され国内各地の養殖場で養殖されたとらふぐで、下関市地方卸売市場南風泊市場に入荷したものとしています。

「活かし込み」は、「下関ふく」生産業者は活魚の状態で下関市地方卸売市場南風泊市場に入荷したとらふぐを仕入れて、同市場内の活魚水槽や同市場に隣接する海面生け簀もしくは「下関ふく」生産業者が生産地内に有する活魚水槽で1日~4日程度「活かし込み」をします。これは移送によって生じたふぐのストレスを除去するとともにとらふぐの体内に残った餌や老廃物を体外に出し、絶食させて身を引き締めるためです。また仕入れたとらふぐの状態や傷・病気の有無もこの間に観察して、引き上げて捌く時期を判断します。そして状態の良いとらふぐだけを選別して、「下関ふく」として出荷するため次のみがき処理の行程に進みます。

「みがき処理」は、「活かし込み」の後、とらふぐを活魚の状態で生産地内の各「下関ふく」生産業者の処理場に移し、ふぐ処理師免許証を有した技能者による「みがき処理」を行います。「みがき処理」とは除毒処理と除毒したとらふぐを拭き上げ、出荷に至るまでの行程であり、この間の温度管理を含めこの行程が鮮度保持のために非常に重要です。除毒処理はとらふぐが持つ卵巣、肝臓、腎臓、心臓、胆のう、胃、腸、脾臓、えらといった有毒部位を除去する処理を指しますが、これは包丁による捌きと水洗いが主たる作業で、包丁による捌きだけでは有毒部位は完全には除去できず、目視による水洗いを行います。

「拭き上げ」は、布巾等により「みがき」に残った水分を除去する作業です。温度管理については、基本的に処理の過程を低温で保つこと(処理場内を概ね気温20度以下に保持)でありますが、加えて顧客のもとに最良の状態でみがきふぐを届けるための「下関ふく」生産業者それぞれの工夫があります。例えば捌いたふぐをすぐに氷冷水で洗うなどの管理方法がとられています。

この「みがき処理」には除毒以外にも二次加工(刺身やちり鍋用加工)のための準備という役割もあり、ふぐ料理の調理人やふぐ加工品の製造者が二次加工の作業を容易にするために、処理を行う技能者は相当な技術を持って捌き・水洗い・拭き上げ及び温度管理にも注意を払っています。

出荷規格については、「下関ふく」生産業者によって、上記の処理がされたみがきふぐ(除毒され、頭部・胴身・かま(下あご)・くちばし(口)・ひれ・皮の可食部位がまとめられたもの)であることとしています。

下関ふくの普及について

明治21年、時の総理大臣・伊藤博文公の鶴の一声により、日本のふぐ食先駆けの地となった下関。今や「ふぐの本場と言えば下関」と言われるほどまでその名は全国に知れ渡るようになりました。街を挙げてのブランド化に成功した好例とも言えるのではないでしょうか。現在のように下関が全国にふぐの本場と認知されるようになったのは、日本で初めてふぐ食解禁の地となった歴史とともに、ふぐを極薄の刺身にして皿に美しく盛りつける職人の調理技術と、毒のある部位を取り除く「身欠き(磨き)」のための技術向上と施設整備に力を入れてきた先人たちの努力の結晶だと言えるでしょう。ふぐの集積地としての誇りのもと、長い時間をかけて下関ブランドを全国に知らしめ、その地位を揺るぎないものにしてきたのです。


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